20101118

Journalを書くために、今日やったことを書き留めているのですが、徹夜に近い毎日の中、今日と明日の境目がいかにもつけきれず(柴﨑友香著『きょうのできごと』2000行定勲監督「きょうのできごと a day on the planet」2004 参照)、今日と明日の境目は眠りによってもたらされるのではないかと、数年に1度のペースでこのような生活をする度に思い始めてから10年が経ちますが、いかにもそれは今日も変わらない。成長してないのか。あるいは、ひとつの定理を見出そうとしているのか。

引き続き、告知とキャストの方々との打ち合わせ(キャスト6名を除いた他の皆様は、遠方且つ/または一度もお会いしたことがない方々ばかりなので、しみじみと実に現代的なイベントをオーガナイズしている感じはあれど、頭の中に過ぎっているのはこのサイトの各所に見られるようにトリスタン・ツァラによって始められたとされているダダ(イズム)であることは、言う間でもありません)をしているKと、機材関係の調査発注及び検討をしてくれているMとの二人でバタバタと準備を進めております。

 

トリスタン・ツァラ『七つのダダ宣言』、書肆山田、2010

 

 

 

 

 

Kyotodeasobo × music [twitter: @kyoaso_music] さんのサイトでも当イベントを取り上げていただき、更には 「!!緊急告知!!」 も無事に終え、ほっと一息。

とは勿論いかず、毎日途切れなく様々な反省点がボロボロと出て来ております。そして、その度に企画班ふたりで朝の日の出も秋の月夜も関わらず、ミーティングを重ねています。

私個人としては、大学進学以前どちらかと言えば制作者側だった頃の記憶と、それから進学後に開始した(一応ですが)美術史や芸術史、美学などの勉強、そして幾つかのアートイベント・音楽イベント・町おこしイベント・レクチャー企画にボランティアスタッフやアルバイトとして関わった経験 、そしてそのどれにも属さず書き記せぬ時間ーーーそれらを握りしめてはいるものの、その拳は産な素手であることには変わりません。当然の経緯となることは想定しながらも、私個人のオーガナイズによるこのような機会に、私自身の意図を反映させることの難しさを痛感する日々です。

そのような「私」の意図とは、ことばにはし難いことである故に、今の時点でのこれ以上の言及は避けたいと思っていますが、(諸事情によって「機会があれば」と付け加えずにはいられないのですが)ゆっくりとそのことについて、振り返りながら書き記すことまでもひとつの試みの責任として、いつの日にか行いたいと思っています。

そして、そんなこんなのメンタル/メタフィジカルな云々とは裏腹に、事はどんどんと進んでいきます。

とにもかくにも、メールメールメールメール書類メールメール電話メールメールメモメールメール電話メールメールのここ数日。今イベントキャストでもあり、また関西ではちょっとした(?)人気者の建築学生(彼の名は他大学の他学部の私にですら耳にするほどです)でもある DJ ynbrくんが、彼もまた多忙極めるであろう日々の中、フライヤー配布に協力してくださるという、Limited tossさん率いるVol.4 Recordsの皆様に続き、なんともありがたい助勢を名乗り出てくださりました。そして、PCから離れられないKの代わりにM(スーパーアシスタント、略して「SAM」を昨日のJournalから定着させようとしている)は自転車で河原町三条までフライヤーの配達へ。

(ここだけの話ですが、実は京都市は殆どの所に自転車があれば行くことができます。が、私は未だに自転車の運転ですら胡散臭いと言われており、つまりはこの運動音痴はそのレベルにまで至っているということです。私は何ともないのだけれども、周りの友人が私が自転車に乗るのを必死に止めようとするシーンに出くわした回数は計り知れない。はは!)

加えて、同じく本イベントのキャストでもある、DJ kamossくんと地雷(G-BASS, 初期化-INITIALIZE-)くんも今後、告知活動に加わって下さるとのことで、「表と裏は一体である」ことのありがたさをまた身をもって感じています。その他、ご協力頂いている旧知のみなさま、及び協賛のLTTCグループのみなさまも加え、改めて感謝いたします。当日まであと少しとなりました!全力で頑張ります!

「西ヨーロッパ的な思考は、「有」によってたつ。そこでは、世界はメタモルフォーシスしていく「有」の連鎖としてイメージされていた、ところが非西欧は「有」「無」が転換をおこす境界面の上に、彼らの壊れやすい世界を築いてきた。非西欧の思考にとっては、有意味=無意味という奇妙な事態が発生する境界面の上だけが、生命と一体である彼らの芸術が生きられる場所なのだ。

その境界面を「ダダ」とツァラは呼んだのである。

ざわめきたつ無意味の波頭を、たえず自分の背面に受け取っているのでなければ、どんんあ意味であっても生命を持たないし、その境界面で呼吸していることばでなければ、人間の言語などが鳥や動物や植物や鉱物と心を通わせることなどは、なしえない。

それゆえ「ダダ」は永遠なのである。それはとりわけ、私どものもとにあって、永遠の生命を持っている。」(中沢新一「その境界面をダダと呼ぶ」、『Cirque TZARA』[第1号]、Club TZARA、2007、p.13)

 

 

 

Electro house hits 2010

I wish that everyone concerning with born yesterday will bring about breaking a breakdown.

[K]

@21:48

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